神について -3神について -3湯川博士は中間子理論を発表された時に、 「科学を追究してゆくと、宇宙の最始源には神と名付ける外に、しようがないところの存在がある、ということを認めないわけにはゆかない」 と言われたのでありますが、はっきりと「神がある」「神は智慧の存在である」と言われる方が男らしいと思うのであります。 しかし、そこまで分かっていても、科学者達が堂々と「神」という表現をし得ないのは、日本では色々な巷の神々があって、「神」という言葉に対する混乱があり、「神」ということに対する意識統一がなされていないところに、一つの原因があると思うのであります。 科学者達が既に認識している、宇宙創造の本源の神も神であれば、街の霊媒が拝んでいるのも神の名で呼ばれ、田舎の士手の祠に祭ってあるのも神であります。 「神とは何か」ということに対して、まだ明確な認識を持っていない人が沢山あります。 神が人生の苦しみからの逃避の場であったり、また多くの間違った宗教指導者達は、神という言葉を使って信者から金を捲き上げたり、恐怖心を与えて信者の心の自由を束縄したりしています。 神仏の名を利用して、恰かも自分達が運命の支配者であるかのような顔をして、各宗教団体は巨額の財産をこしらえ、何十億もかけて華麗な殿堂をこしらえています。 宇宙の一切のものを生かしている神を、恐怖すべきものとして打ち出している宗教家は正しいものではありません。 神は恐怖すべき存在ではありません。 神が罰を与えるとは、とんでもないことです。 神は永遠の至福の存在であります。 いかなる宗教も、神を恐れるべきものとして説いてはならないのです。 しかし現在はどの宗教も神の名に於て恐怖をふりまき、本来明るくあり、楽しくあるべき神の子の心の中に、暗く恐るべき恐怖の心をそそぎ込んでおります。 われわれは、もはや恐怖心を与える宗教の奴隷になってはならないのです。 世界の平和は、人類が恐怖の宗教から脱却して、神は生命の本源であり永遠至福の存在であることに目覚めた時から実現されて行きます。 そのことを知るのは、神がわれわれに与えられた智慧に目覚めることです。 もう一度、「人間釈迦」第一巻 58ページからのお釈迦さまの悟りを見てみましょう。 「この大宇宙は神によって創られた。 大宇宙が発生する以前の大宇宙は、光明という神の意識だけがそこにあった。 神は、その意識の中で意志を持たれた。 大宇宙の創造は、神の意志によって始まった。 意識の中で意志を持たれた。 意識の働く宇宙と、物質界の宇宙の二つの世界を創造した。 神の意識は永遠の調和を目指し、そうして二つの世界にあって、調和の要である中道という法秩序の中に住まわれることになった。 人間は天地創造と共に、神の意識から別れ、神の意志を受け継ぐ万物の霊長として産ぶ声をあげた」 「法秩序の中に住まわれることになった」 ということは、神は「ここに見よ、かしこに見よ、というが如くにはいまさないのである」 と聖書に書いてあるように、形として偶像として、神が存在されるのではなくして、姿形は見えないが法則として、神は永遠の創造を続けられるのであるということであり、法則を活用するということは即ち、神の生命を生きるということになるということであります。 失敗したり間違ったりするのは、神が悪いのでも、また神が罰を当てるのでもなく、われわれが法則を知らないで、また誤って使った結果なのであります。 二度と同じ失敗しないためには、法則を正しく知って、それを正しく活用する方法を学んでその通りにすれば、正しい結果が出てくるのであります。 だから「知る」という智慧が大事なのであって、お釈迦さまは「知らないことが一番大きな罪である」といって「無知」ということを説かれたのであります。 ですから正しい宗教は「先ず知りなさい」「知るためには疑問を持ちなさい」 と教えるのであります。 正法誌12号1979.8より抜粋 |